m Into the Black Africa
黒いアフリカ大陸と奴隷

8世紀から17世紀

 8世紀初期、イスラムはアフリカのサハラ砂漠から北の地域を、西に向かって占領地を広げた。 8世紀後期、キャラバンは定期的にサハラ砂漠を越え黒いアフリカ大陸と交易をしていた 。しかし、イスラムによる軍事的な侵略は、1062年のモロッコに基地を置いたムラービト朝(アル‐モラヴィト朝) が西スーダンのガーナ王国を支配し始めるまでなかった。 
 
※ ここで言う「イスラム」は「イスラム教社会」のことで、因みに「ムスリム」は、「イスラム教徒」を意味するアラビア語。 
※ ムラービト朝/ アル・モラヴィト朝(Al-moravids ):1056年に北アフリカのサハラ砂漠西部に興ったベルベル系の砂漠の遊牧民サンハージャ族を母胎とするモロッコとアルジェリア北西部、イベリア半島南部のアンダルシアを支配したイスラム王朝。 
※ガーナ王国: ガーナ帝国: 8世紀から11世紀にかけて、サハラ越えの金と岩塩の隊商貿易の中継地として繁栄した黒人王国である。 金や岩塩の他にも、銅製品、馬、刀剣、衣服、装飾具など各種手工業製品の交易路を押さえ、その中間貿易の利で繁栄した。  

抵抗は激しく、1076年にやっと、ガーナ王国の首都を陥れ、略奪に成功したが、12世紀の初期、征服者たちの直接支配の影は無くなってしっまった。その間に、国王、国民はイスラム教に改宗し、ガーナは巧みに独立を主張した。

1154年に、中世の偉大な年代記編集者であるアル・イドリーシー(al-Idrīsī)は、「ガーナは人口が多く、広範囲に貿易をしている、スーダン地域のもっとも偉大な国である」、と書いている。(スーダン地域、ここでは北アフリカを指す?)

※アル・イドリーシー:1099年(1100年)~1166年(1180年)。 中世に活躍したアラブ人の地図学者・地理学者、史上初めて正確な世界地図を作成した。

王国にとってはすべてがいいと言う訳ではなかった。 首都の周辺の農業は、アル・モラヴィトやその群衆に加えられた危害からの回復が出来なかった。 セネガル川とファレメ川の間にあるバムバクの採金地は、何世紀にも亘る搾取で涸れはてた。 その南東のニジェール川上流では、新しく豊富な埋蔵地が採掘されていた。

そして、マンデ一族のリーダーの一人であったスジャンタが征服の務めを始めたのは、ニジェール渓谷の上手からだった。 その結果、マリ帝国が生まれ、1230年から、四半世紀に亘って支配した。

※マンデ族とは、西アフリカでマンデ語系言語を話す民族の一つの家系である。マンデ語グループは、ベニン、ブルキナファソ、コートジボワール、ガンビア、ギアナ、ギアナビサウ、リベリア、マリ、モリタニア、ニジェール、セネガル、シエラレオネの国々です。
※スンジャタ・ケイタ(Sundita: 1217-1255年ごろ)マリ帝国の始祖。因みに、あのミュージシャンのサリフ・ケイタ(Salif Keïta)は、マリ帝国王家の直系の子孫。

アルモラヴィトの占領は、占領地以上にイスラム教を拡げた。 スジャンタは名目上ムスリムだったが、その跡継ぎ達はそれほど真剣ではなかった。 14世紀の中頃、マリ帝国で一番尊敬されていた支配者、マンサ・ム-サ一世は、メッカ巡礼の途中、カイロで金(gold)を使いまくり、その金の価値を落とした。 しかし、彼の名声をイスラム社会からキリスト教社会に広めたこの富だけが、彼の特異性ではなかった。

1352から53年、ム-サ一世がマリ帝国を統治していたころ、帝国を訪れた、イブン・バッツゥータは貿易関係者や旅人が、動き回るのに安全であり、施設も備わり、農業が盛んんで、商業も発達し、行政が正義を重んじるところであると、報告している。

※イブン・バッツゥータ(1304-1368)は、マリーン朝のモロッコ人である。彼の旅行記「諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物」にまとめられた広範囲にわたる旅行でしられ、30年間をかけて、北アフリカ、アフリカの角、西アフリカ、東ヨーロッパ、中東、南アジア、中央アジア、東南アジア、中国が含まれる。イブン・バッツゥータは史上もっとも偉大な旅行家の一人と考えられている。日本では「大旅行記」「三大陸周遊記」「三大陸周遊記 抄」。

 15世紀の初期には、帝国は傾むいた。ニジェール川の斜面にあるガオを首都とし、東に約700マイルも難れたマリ帝国の首都ニアニへの、ソンガイの王たちは忠誠を破棄した。 スンニ・アリの軍隊が進軍するにつれて、マリ帝国はソンガイの人々に依存した。 ソンガイの影響が広がるにつれて、イスラム教の影響が問題になったが、スンニ・アリの後継者ムハンマドは、修復を図りながら、イスラム教を広めた。

※ソンガイ帝国(1464-1590)は、15世紀後半から16世紀にニジェール川湾曲部を中心に西スーダンのほぼ全域を事実上支配した黒人王国である。ソンガイ帝国の歴史は、イスラム的伝統が優位に立つ王の治世とソンガイ的伝統が優位に立つ王の治世が交互繰り返されていた。
※ スンニ・アリ(?‐1492)は、かって西アフリカに存在していたスンニ朝ソンガイ帝国の君主。彼の治世にソンガイ帝国は最盛期を迎える。治世の初期のほとんどは戦闘に費やされ、スンニ・アリは30年を超える治世の中で一度も戦闘に敗れなかったと伝えられている。
※後継者ムハンマド(Askia Muhammad 1):アスキア・ムハンマド一世・トゥ(1443-1538)は、アスキア朝ソンガイ帝国の君主。読み書きはできないながら、温和な性格で先見性を持つ敬虔なイスラム教徒だと伝えられている。


 ソンガイ帝国がその地域で最強になった。 北はモロッコのすぐそこまで、東はガンビア川から大西洋に流れ込むチャド湖周辺の国ボルムまで、広がっていった。

そのような、ブラックアフリカに於けるイスラム教の拡がりは、北から占領という以上の要因があった。 この地域で継続する帝国は、イスラム教を取り込む準備ができていた、というのもマグリブ地方での貿易や繁栄の帰依していた支配者、商人との付き合いに有る程度の正統性を与えたからだ。。

※ マグリブ(Maghreb:アル・マグレブ)は、アラビア語で「日が没するところ」を原義とする語。 マグレブとも。 「西方」の意味を持ち、地域名としても用いられる。また、ムスリムの義務である一日五回の礼拝のうちの一つである日没時の礼拝を指す言葉でもある。地域はモロッコ、アルジェリア、チュニジア、西サハラの北アフリカ北西部に位置するアラブ諸国を指し、場合によってはリビア、モリタニアも含む。

そして、その地域に於ける商人のほとんどがムスリムになっていたし、彼らの信望、行動力によって、イスラム教の拡散に特別に影響があった。 確かに、商人たちの幾人かはイスラム教の聖職者(Marbout;マラブー)であり、呼び起こすと信じられている超自然的な力に見合うよう尊敬された。

※マラブー(Marbout)は西アフリカや(歴史的に)マグリブにおいて、イスラム教の指導者であり教育者であった人々を指す。

リチャード・ジョブソン、ガンビアを旅した17世紀の英国人は、こう報告した。 「彼らはどこに行くにも無償の援助があり、王や国が戦争していたり、武装し、お互いにいがみ合っていたりしても、聖職者は特典のある人なので、どちら側からも干渉されることがないので、多くの人たちが彼らの交易、旅の道筋をついてきた。」

※ リチャード・ジョブソン (Richard Jobson:1620-1623)はイギリス人で西アフリカを探検した。「The golden Trade」

おそらくその結果、イスラム教は領土拡張する者としてのルールを問題であると捉えへ解決を約束した。 支配者は伝統的、初歩的に、共通の祖先からくる血族関係があり忠誠心のある者に限られていた。

 しかし、帝国の領域が広がるにつれ、その忠誠心とやらも薄まった。 地方の指導者たちは単純に地方の血縁に頼って反抗した。  十分な供給力のある兵隊を抱え、支配者の家庭の中からら指名された地方知事たちは、帝国の王座を狙って大した理由もなく反抗を企てている他の地方知事たちと危険を冒すことになった。

皇帝は、血縁関係のかわりに、必要な素質を持ち、個人的に忠誠心のある奴隷の中から地方知事を指名した。 そのような素質のある人、忠誠心のある人は、奴隷であろうが自由人であろうが、その地方の多くのイスラム教の学校、大学で教育を受けていて見つけることが出来た、そして、それらの学校は、イスラム社会のあちらこちらで学者たちを魅了した。
 とわいえ、たとえ支配者たちがそれなりに成功裏の内にイスラム教を利用して政府の運用を効果的に組織し維持していたとしても、他方、下層階級、そして人気という面ではもうひとつだった。
イスラム教は、すくなくとも19世紀まで、民衆には広がらなかった。伝統的な血縁忠誠心はかろうじて持ちこたえたが、また帝国の弱点もあらわにした。

金と奴隷は、西アフリカの継続したスーダン帝国から北方モロッコに直接運ばれた。  しかし、これは唯一のルートでも目的地ではなかった。
9世紀には、ガーナからガアゥに斜めに行くルート、そして、サハラを通ってエジプト。 このルートは徐々に重要性が無くなってきて、14世紀にはマリから北部エジプトが目立ち、16世紀になると、ティムバクツからカイロのルートがあった。

* ティムバクツ(Timbuktu/ˌtɪmbʌkˈtu:/) はマリの町で、ニジェール川を北へ20キロのところにある。
* ガアゥ(Gao/gaʊ/)は,同じくマリの町でニジェール川に位置し、ティレムシ峡谷との合流地点の左岸の堤にあるティムバクツの320キロ南東にある。

16世紀の旅行ライター、”アフリカヌス“として知られる、アル・ハッサン・ムハンマド=ワッザーンは、サハラ砂漠のオアシスを巡るルートの住民たちはエジプトとガアゥ間の交易で裕福で、黒人だったと記録している。 彼らはソンガイ商人たちであり、彼らの奴隷エイジェント、また、奴隷貿易の立ち寄り場所を開拓、警護するために定住した其の他の奴隷たちであった。
その他の初期の重要なルートは、ズウィラが主な立ち寄り先であったフェザーン地区のオアシス複合地を通って、中央スーダン地帯から地中海沿岸のトリポリに至った。 西アフリカからの交易の中で重要な構成部分である金を除いて、奴隷は輸出の重要商品であった。 その当時のアラブ地理学者で歴史家であるヤアクービーは、早くも9世紀後半、ズウィラは奴隷貿易の重要地で、南部奥地で貿易しているイバード・ベルベル人の根拠地であったと報告している。

※アル・ハッサン・ムハンマド=ワッザーン(Joannes Leo Aricanus: レオ・アフリカヌス)は、アラブの旅行家、地理学者。スペイン、グラナダ生まれ。16世紀初めサハラの南を含む北アフリカ全域を旅し、「海と陸の旅(紅海と旅について)」を出版。評判になる。後の「アフリカ誌」。 ※ヤアクービー(ya'qubi)は、イスラムの歴史家、地理学者。インド、エジプト、マグレブを旅した。 ※ズウィラ(Zawila:zwila, zuila~…)はリビアの南西にある村である。中世にはフェザーンの首都でああった。: ※イバード派:オマーンに多く存在するイスラム教の宗派。 ※ベルベル人:北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口を持ち、文化的な独自性を維持する先住民族である。形質的にはコーカソイドで、宗教はイスラム教を信じる。ヨーロッパではムーア人、モーロ人と呼ばれた。

アル・イスタクリ?(Al-Istakhrī)、10世紀のライターは、色々地域のアフリカの奴隷を比べて、中央スーダンから到着し北のルートでズウィラを通過した人々はより肌の色が黒く、其の他の人たちいい状態だったと断言している。 H.J.Fisherが書いているように、「9世紀の後半に興った奴隷の反乱は、特にザンジュの奴隷と結び付けられて東アフリカからの奴隷は評判が良くなく、それに相応して中央スーダンからの重要が高まった。」

※アル・イスタクリ?(Al-Istakrurī )はペルシャ人の旅行家、地理学者。イスラムの黄金時代(アッパース朝の最盛期)にモスリムの領地を旅し、書物を残した。
※H.j.Fisher:グーグルできず。

多分、9世紀から10世紀にかけて現れたスーダン地方のカネム帝国は、奴隷貿易に対応した。確かなのは、国の成立させるのは軍事的侵略をすることだった。
11世紀に、イスラム教の伝道師、ムハンマド・マニ(Muhammad Maní)はカネムのマニ・ウマイ(Mai Humai)として改宗し、帝王に与えたコーランの入門書の代わりに、100人もの奴隷、100匹のラクダ、100枚の金貨、100枚の銀貨の施しを受けた。

※カネム帝国(カネム帝国)はアフリカ内部スーダン地域の中央で700年頃から1376年に後のチャド及びリビア南部一帯を支配した。

 その後の支配者たちもイスラム教に対する信心で有名で、カネ帝国内でのイスラムのその神聖は特別扱いを受けた。 13世紀初頭、その権威が最高の時、カネム帝国はフェザーンを征服した、おそらくサハラ砂漠での交易ルートの制御、確保するためだ、そして、カイロにカネム人のための宿舎を開いた。

※フェザーン(リビア)は、現在のリビアの南西にある。ほとんどが砂漠であるが、山々、高地、涸れた谷があり、そこのオアシスが交易路に中継地となった。

14世紀の中頃、血縁内で後継者争い、またカネムのムスリムを捕らえて奴隷として売ろうという東部アラブ人との間での争いが、王国に深刻な圧力を与えた。 その後の10年に、王は廷臣と従者たちを連れて、カネムの南西にあるボルヌに逃げて、新しい帝国を作り、19世紀後半まで征服されることもなく続いた。(カネム・ボルヌ帝国)

※ボルヌ帝国(1396-1893)は、ニジェール東部一帯を支配した。

多くの黒人奴隷は中央スーダンから北アフリカでの、軍役のために輸出された。 その交易は、ハーレムの宦官であるとか、公務に職を与え、女性の奴隷は妾として売られた。
 イブン・バッツゥータは、14世紀の半ばにサハラ砂漠を超えて、600人もの女性奴隷と旅し、ボルヌからの宦官たち、少女奴隷を好意的に表現している。 奴隷貿易は、つまらない目的にでも、多くの奴隷を提供した。 かれらは、奴隷としてだけでなく、年貢の代わりや贈り物としても扱われた。 たとえば、1257年には、カネムの王とボルヌの領主から、東部マグレブの支配者に奴隷の分遣隊が送られた。

奴隷たちは、サハラ砂漠交易の需要だけでなく、権威の象徴、富を証明するためにスーダン地方の支配者たちに、従者として、あるいは特に何の特技がなくとも人夫として調達された。 おまけに、旱魃や飢饉、疫病、戦争で人口の減少は、断続的な圧力となった。 奴隷達は損失を補充する必要があった。19世紀、ボルヌで奴隷であったハウサ人は、ボルヌという国は、奴隷の国だ、これは真実だと語った。

*ハウサ人(Hausa)は、アフリカのチャド系民族。主にナイジェリア北部及びニジェール南部に居住し、西アフリカ最大の民族集団の一つである。ヨルバ(Yoruba),イボ(ibo)と並ぶ三大民族の一つであり、最も人口が多いため、建国以来ナイジェリアの実権を握ってきた。一方ニジェールでは人口の55.4%(2001年)をハウサ人が占めるが、1993年の民主化まで国の実権をにぎることはなかった。ニジェールのハウサ人は南部のマラディやサンデール地方に居住している。

ファーティマ朝が国を征服した969年から、アイユーブ朝やマムルーク朝の5世紀半に亘る王朝を通して、エジプトは帝国の一地方から独立国となり、西アフリカの恒久的な権力となった。

*アイユーブ朝:Ahhūbíds/1169年、ファーティマ朝の宰相であったサラディンが、ザンギ―朝から独立した政権を樹立。
*マムルーク朝:Mamluks/1250年マムルーク(軍人奴隷)のクーデターでカイロのアイユーブ朝を滅ぼす。
*ファーティマ朝(Fatimids:909~1171)、シーア派、イアマーイール派が建国した。王朝名はイスマーイール派の祖先である初代イマーム、アリーの妻で預言者ムハンマドの娘であるファーティマに由来している。北アフリカのイフリーキヤ(チュニジア)で興り、後にカイロに移ってエジプトを中心に支配を行った。

南部に行くと、古代のアフリカの文明を引き継いだ二つのキリスト教の王国のあったナンビアでは、ムスリムの商人たちは、エジプトと家畜、象牙、ダチョウの羽毛、そしてもちろん奴隷を扱う交易をするために街の異なった居住地に住んでいた。  これらの奴隷は、ヌビア人、スーダン人の黒人(al nuba or al sudan) は、女性は妾か子守・介護士、男性は、家庭内の召使い、主に兵士として求められた。

多くの奴隷が輸入されたが、だいたいナンビアでは人口が少なく要求にこたえることができず、多くの奴隷が南部の大きなエリアから、また西方に向かってエチオピアから、ダフールへ、またその先からやって来た。

ファーティマ朝の終焉時、彼らがファーティマ朝の利益のために反乱を起こし、ファーティマ朝に忠誠心を示したが、そのため黒人奴隷軍人への需要が急激に減った。 しかしながら、ナンビアの奴隷は、エジプトだけでなく、その他のイスラム教国でも家庭内、家庭外に問わず需要があった。
14世紀半までに、アラブの略奪者はチャド湖周辺からエジプトの市場に奴隷を供給した、彼らの中には、ボルヌのムスリムの王の申し立てによれば、彼の親族も含まれていた。

 エジプトの商人もエチオピアでは活発で、独立したキリスト教国や、その南のムスリムの国々と交易した。 彼らは、亜麻、綿、絹織物、武器、そして象牙、スパイス、もちろん奴隷を持ちかえった。 これらの奴隷は信頼性も高くイスラム社会で高く評価された、彼らは宦官で、どこかで去勢された後、主にエチオピアの南西のハディアから輸出された。

 東アフリカ海岸に沿って南に向かうイスラムの進出は、おもにその年々のモンスーンの方向によるが、以前から設定された海のルートを使って進んだ。 古代ギリシアの航海士ヒパパロスは、冬の間の4か月、北東の風はアラビア、北インドからアフリカの東海岸に船を運び、夏の間の6か月は南西の風が反対の方向に船を運んだ。

※ヒパパロス(Hippalus;hippalos:南西モンスーン)は、ギリシャ人の航海士で商人、これは本名ではない。紅海からインド洋上のタミルアカムへの直接ルートを発見した。

 匿名エジプト在住のギリシャ人航海士が2世紀(西暦101年から200年)に残した「エリュトゥラー海案内記」によると、奴隷達はアフリカの角と呼ばれる地域から輸出され、南部のアラブ人は東アフリカ海岸に定住した。

※別人。
※アフリカの角は、紅海の南側を沿ってアデン湾、グアルダフィ海峡、ソマリア海、に沿って拡がる地域である。


7世紀後半、アラブ人の定住者にイスラム教徒が加り、9世紀には、イスラム教徒は海岸沿いの地域を略奪した。 アラビア半島、ペルシャ湾周辺から来た商人たちによって設立され発達したムスリムの居住地は新来者とアフリカの角の先住民との異なる人種との結婚により強化され、彼らは彼らをベルベル人と名乗り、アラブの地理学者によると、北アフリカのベルベル人と区別するために「黒いベルベル人」と呼ばれた。

外来の構成要素、主にアラブ人の系統学的伝統は今日のソマリ人々の中に入り込んでいる。 アラビア語の碑銘によってこれらの伝統は、8世紀の後半にモガディシュに最初のアラビア人の定住が確認されている。  しかし、最初の最大の移住は、10世紀の最初の数年に始まり、その他の多くのアラビア人、ペルシャ人が続いた。 モガディシュ王国が確立する13世紀までには、この傑出した商業の港は、インド、アラブ、ペルシャからの商人を地元の交易業者との定期的な取引に呼び込んだ。

※ モガディシュ朝、またモガダソ王国(9世紀から13世紀)は南ソマリアを中心にした中世のソマリ朝で、アフリカの角地域で抜群の力を持っていた。後にアジュラーン・スルタン国となる。モガディシュ朝は広大な貿易ネットワークを持ち、地域の金貿易を支配し、独自の通貨を持っていた。 今日の南部ソマリアでは、当時の広範囲にわたる建築遺産が見られる。

 アフリカの海岸に沿って北上し、アデンからペルシャ湾を渡ると、イスラム教徒の定住するソマリアの街ゼイラがあった。中央、南東エチオピアのすべての交易ルートに沿ったイスラム教社会の商業にとってこの港が最も有力で、14世紀までには、ゼイラ国としてシリア、エジプトで知られた。12世紀には、モロッコの学者アル•イドリ-スィーは、「小さな街という感じであるが、非常に人口が多く、そこでの輸出は奴隷と銀があった。」と書いている。

※ムハンマド・アル=イドリースィーは、中世に活躍した地図学者、地理物理学者、史上初めて正確な世界地図を作成した。

ゼイラはエチオピアの領域で、ムスリム社会、政治体制を打ち立てようと移住してきた人々とって出発点であったようだ。 おそらく200年の発展の後、14世紀初期まで多くのこれらの体制は存在した。
 ほとんどはほんの小さな首長国であったが、いくつかは王国の体をなしていた、最も有力だったのは、イファト•スルタン国でエチオピア内地と海岸にあるゼイラとの、長距離交易を仕切っていた。大きいとか小さいとかではなく、これらのムスリムの政権は、強力で戦闘的なキリスト教王国の脅しに屈せず、お互いに協調するという道を選ばず、争う傾向にあった。

※イファト・スルタン国は、現在のエチオピアの首都アディスアベバ周辺から東を支配していたイスラム教の国。

実のところ、13世紀には奴隷交易の中心地であったムスリム国のハイダは、属国になることで、まず先にキリスト教王国と秩序を保った。  14世紀の終わりには、キリスト教王国と戦い、イファトは消滅した。

 アラブの地理学者たちは、四つの地域にアフリカの東海岸を分けた。アフリカの角からモガディシュの北部までをベルベル、ペムバから南方に伸びてザンジバルの手前までをザンジュ、リンポポ川の河口あたりまでであっただろうソファラ、その先はあまり知られていないワクワク。
  1.  北ソマリア、ベルベル人、ソマリ人の祖先、Barbara.
  2. アビニシア、エチオピア、アビニシア人。
  3.   
  4.  サンジュ、アビニシア高原およびBarbaraの南部。Zenj,zinj.バンツゥー語。
    現在のモガディシュ南部からタンザニアのペンバ島。
  5.   
  6.  ソファラ、ペンバ島の南、モザンビーク、その北の境界はPangani.
  7.  ワクワク、モザンビーク、詳細不明。

 アル・マスウーディー(アラブ人の歴史家、地理学者)は、916-17年にかけてオマーンからその当時クワンバルと呼ばれていたペムバに旅行した。  彼の記述によると、「この島は、イスラム教で統治されザンジュの言葉を話す一族やバクダッドのウマイヤ朝の終焉、750年頃?にこの地を支配したイスラム教徒が含まれていた。」

ザンジュの海岸沿いを北に向かい三分の一ぐらいの所にあるマンダには、9世紀の考古学的証拠があり、その豊かさは素晴らしい。  いくつかの建物はサンゴ石灰石で作られ、壁は、おそらく海の浸食を防ぐため、それぞれ最大1トンの大きなサンゴ石灰石で作られている。  中国の炻器(せっき), 磁器が発見されただけでなく、ペルシャ湾東部のシラフで見つかったような陶器も輸入されていた。

※素地が固く焼きしまった焼き物で、非透明性である点で磁器と区別し,気孔性のない点で陶器と区別する。茶器、土管、火鉢などの大形物に用いる。

 マンダとペルシャ湾、特にシラフとの広範囲の交易が存在していたのは、事実上明らかである。  現在でもメインランドでは象がありふれているように、マンダからの最大の輸出はアイボリーであったことは当然だと推測される。

 ペンバ島の南、ザンジバル島で見つかった物の中には、9世紀と10世紀のイスラムの陶器、798-99年に遡るハールーン・アッラシードの肖像が刻まれた金貨がある。

※ハールーン・アッラシード:アッパース朝第5代カリフ(786-809)。「千夜一夜物語」(夜な夜なバクダッドに繰り出す風流な君主として登場する)  12世紀の中頃、イドリーシーは,彼はザンジバルだと思ってたようだが、島の住人は主にムスリムで、ソファラの海岸の真ん中ぐらいで、鉄が生産されていると書いている。(ソファラは、モザンビーク、現在のNova Sofala.)

 彼は付け加えて書いている、「その鉄は、卓越した優秀さでジャワからの貿易業者が、まれな品質の刀を作るインドに輸送された。」 しかし、鉄だけがその地方からの唯一の輸出ではありえない。

  イスラム教の伝播の最初の段階は、ほとんど交易事業と貿易業者に限られて、其の他にはあまり影響がなかった。  早すぎることはないにしても、11世紀初期、バンツゥー語を基礎にして、明確に区別される海岸沿いの言語、キスワヒリ(スワヒリ)が現れた、そして、1100年頃、数々の居住地でお互いに影響を与えながら、明確なスワヒリ海岸文化が発達した。
約1100から1300年、この第2段階の間に、貿易・商業活動の結果の富に応じて建築物にサンゴ石灰石の利用や、中近東、インドの商人たちとの接触によるイスラム教等の拡散が著しく増えた。

※ 「スワヒリ」は民族を指し、「キワヒリ」は言語。

たとえば、12世紀初め、キルワでの大モスクが最初の段階で、12世紀、13世紀になると、ラム、マインデ、モガディシュ、モムバサ、ザンジバルが海岸沿いの主な居住地となった。これは、とくに一連のアラブの王朝が獲得したモガディシュでは、イエメンからのアラブ人の氏族の移住と関連して、海岸沿いの商業活動が発達し、イスラム教学の中心として知られ、13世紀の終わり近くになると、イエメンのシャリフ(預言者の子孫)がキルワを獲得しソファラからの金の取引を独占した。

だいたい1300-1600年の沿岸の歴史のゴールデンエイジと呼ばれた第3段階では、沿岸の半分まで居住地が創建され、その地域は繁栄のピークに達した。 北のモンバサ、マリンディは、キルワ交易支配と競う、豊かな商業の中心地となった。  直接的な交易の接触は、それまでペルシャ湾が主だったが、エジプトから中東に伸びるより広域なインド洋ネットワークの一部となった。
 フィリップ・カーティンは、「1500年になる少し前、年間の北に向かう金は、インド洋の一般的な商業系統に流れ込み、少なくとも平均1000㎏に達した。」 これは、西スーダンがすでにサハラ砂漠交易で得ていたのと同じ、金と銀を基礎とした世界経済系統にジンバブエを引き入れた。  おまけに、象牙、毛皮、竜涎香(マッコウクジラの腸内に発生する結石、香料。)、たらがい、コヤスガイ、農産物は、中国、マラッカからのスパイス、宝石、絹、錦、金襴、青磁器、陶器との交換で送られた。

※フィリップ・カーティン(1922-2009)はジョン ホプキンス 大学の名誉教授、歴史家。 アフリカ、奴隷貿易に関する著述がある。 "The Atlantic Slave Trade: Census (1969) "

イスラム教が沿岸の最も優勢な宗教となった。色々な種類のサンゴ石灰石で、より大きなより手の込んだモスクが建造された。 しかし、文化といえば、外国から押し付けられたものと違い、明確にスワヒリだった。土着のアフリカの伝統である母系の受け継ぎは、17世紀まで北に位置する街々ではイスラム教の父系の影響に上手く耐えた。
 女王だけでなく、女性たちが男性と一緒にモスクに参拝し、教養を磨き、イスラム教学(knowledge, education)を学んだ。彼女たちは男と同じように相続し財産の所有権を獲得し、ある沿岸居住地では、王家の女性たちが相続し、統治した。

 しかし、沿岸居住地は平和裏に富が求められた訳ではない。二方向からの圧力が、増えてきた。一つは、北方のアラブ人、それと突然海から現れて、略奪、奴隷にするために人々を捕えるポルトガル人。もう一つは、内陸の土着の人々で、沿岸に沿ったスワヒリの農業社会を攻撃した。
 あるポルトガル人の時事解説者は、「スワヒリの街について、戦争をしていない時があるとしても、本土(内陸)とは平和な関係ではなっかった」。その他の見解としては、「奥地に土地をもっている人はいなかった、異教徒(内陸の人々)たちはそれを許さなかったし、街のひとたちは彼らを恐れていた。このような理由で、街は壁で囲まれていた」。 前段階では壁はスワヒリの町の特徴ではなかったが、1505年までには、キルワ、モンバサから南に、北方沿岸沿いの主な街には防御壁があった。

 その理由の一つは、沿岸の居住地は奴隷貿易、また奴隷を捕獲していたからである。  彼らの中には、奴隷が居た事は確かである。イスラム社会では、奴隷が居ないということは居るということよりも異常な事だった。早い時代に彼らと接したポルトガル人は、沿岸の街の上流階級によって身に着けられている、絹や綿の贅沢な着物、金銀の宝石類だけでなく、奴隷が身に着けていた腰巻についても言及している。

 14世紀の中頃、この地域を訪れたイブン・バッツゥータはキルワをこのように描写している。「沿岸沿いにある大きな町で、住民のほとんどはザンジュで、肌は黒く、顔には入れ墨。住民たちは、ザンジュとのつながりでいつも軍事遠征に参加している。私が訪れた時のサルタンはアブヅル・ムザファーで、能力と寛容さで有名だった。彼は遠征で得た五分の一の戦利品を敬虔で慈善的な目的に捧げていた。  もし奴隷を獲得することが軍事遠征の主な目的でないとしても、いやそれが目的かもしれないが、疑いもなく奴隷は戦利品のその一部を構成していた。

 防御壁の存在は、孤立を意味するものではなかった。沿岸の居住地は南アラビアからの移住者、それから脅威、迫害、戦闘から逃れるため、また沿岸の居住地の繁栄の噂をに惹かれたアフリカの人たちを吸収した。これは居住地の素晴らしく、断固とした対応力を証明した。

16世紀、アポルトガル人たちはアフリカの角の南のイスラム社会に圧力をかけ続け、彼らは海軍力で西インド洋を制覇し、ザンベジ・ルートを管理、ソファラを通じての沿岸沿いの金、象牙のルートを取り崩した。  その対称のスペインと同じように、異端審問による侵略的、抑圧的なポルトガルの宗教、商業の過激さは、沿岸沿い社会の反発を強め、抵抗を受け最後には彼らを打ち負かした。  聖戦のよるキリスト教王国エチオピアの征服の試みの失敗は、沖の島にあるパテ、ラムにおもに移住したアラブ氏族の、その地域での増加が要因であった。

※パテ島:ケニヤの北方沿岸、インド洋。ラム諸島。

 これらの氏族たちは遥かインドネシアまでの商業活動を通じて、この島々を交易の中心地にし、その富は以前から居住する自由人ワングワナに及び、彼らのスワヒリ語、学問、伝統を通じて町の人々を文明化した。 17世紀のパテ、ラムでは、裕福なアラブ人と自由人ワングワナたちは、社会支配のシンボルとして、壮大な、数階建ての邸宅を建てた。  彼らの階級の下には、職人や、新来者である外国人、イスラム教徒でない野蛮人と呼ばれた貧しい自由ワングワナがいて、その下には奴隷がいた。  彼らは、妾やオーナーの邸宅で家事をする召使いだけでなく、交易の材料を供給する主な農地で働く労働者だった。 ランドル・エル・ポウエル(アメリカの歴史家。)は、18世紀のラムについて、例えば、広大な本土のプランテーションやソマリ、本土の人々とのつながりで、ある氏族は交易での富を増やし、巨大な数の奴隷を獲得、雇い、その富を上積みしたと書いている。

 沿岸沿いの社会では、富は決定的な要因であった。  富は、家の大きさであるとか、世帯の構成、家族関係、宗教的責務が地位として付け加えられた。  もちろん、「家系は富を得ることによって頻繁に変わった」と、パウルは付け加えている。ひとつだけ、障害があった。 これは宗教に結び付いた金権主義だった。  社会的な昇進は、イスラム教徒のみに許された。

 またこの時期に、オーマンのアラブ人が沿岸地域の社会、政治に実質的に影響を与え始めた。  イギリスの援助で、この地域でポルトガルのパワーに首尾よく対抗できた  18世紀の半ばまでには、ブーサイード朝がオーマンだけでなく、ザンジバルも支配した。

※ブーサイード朝は、18世紀からオマーンを統治する王朝。過去にはザンジバルなどの東アフリカの沿岸地域を支配していたが、1964年のザンジバル革命でアフリカの政権は消滅した。
※サルタン サイイド・サイード(1791/06/05-1856/10/19)は、オーマン・ブーサイード朝第5代スルタン。オーマンの最盛期を現出、サイード大王とも呼ばれる。オマーンの勢力を東アフリカにまで広げ、オマーン海上帝国と呼ばれる大交易帝国を築き上げた。


 1800年の初期、1806年から半世紀以上ブーサイード朝を支配したサルタン サイイド・サイドは、戦略的な基地であるザンジバル,キルワから沿岸沿いを征服し始めた。
 その他の氏族や徒党などの権益が関わり、長く続いた戦いとなった。
 モンバサについては、1837年になるまで征服されなかった。
1853年の彼の死までには、沿岸地域のほとんどの町を押さえていた。
 ブーサイード朝の権力が沿岸地域全体に及ぶのは1985年になるまでかかった、そしてその時はもう、本当の権力は大英帝国によって掌握されていた。
 そうしている間も、交易の町々は彼らの事業に関しては実質的に彼らが支配していた。  サルタンたちは、征服することによって覇権を得たというより宗主国であった。
 サルタンたちに対する抵抗は、途切れ途切れに1880年まで続いた。  サイード・セイドが首都と宮廷を移したザンジバルでさえ、サルタンの令状は反対勢力の氏族出身の貴族たちによって避けられた。

 リチャード・バートンによると、「ザンジバルで、時には貴族たちは、逮捕の命令がでると、友人、武装した奴隷を集め、家を城塞にした。」と書いている。  2000人の銃で武装した黒人たちを抱えたサリム・b・アブダラーはサイードの従順な主人達と些細な戦いを繰り返した。

※リチャード・フランシス・バートン(1821-1890)は、イギリスの探検家、人類学者、作家、言語学者、翻訳家、軍人、外交官。「千夜一夜物語」の翻訳で知られるy。19世紀の大英帝国を代表する冒険家である。

サイード・セイドは権力を利用して富を築き、その富は権力をまた維持した。彼の歳入は巨大だった。
 イギリス、フランス、アメリカとの商業は彼に沿岸地域に持ち込む商品の5%の関税で儲けをもたらす一方、輸出に対する5%の税金は別の儲けをもたらした。
 しかし、彼は単に徴税人だけに満足しなかった。
 あるアメリカ人によると、サルタンは毎年、象牙を集めるのに100人派遣した。
 彼の家族と一緒に、サイード・サイドは奴隷貿易に深く関わっていて、それは特に重要で彼の主な事業の労働力の源だった。その事業とは彼自身が所有する巨大なプランテーションのあるザンジバルを中心に、クローブの栽培と輸出であった。

 東アフリカからアフリカの角に亘るイスラムの奴隷貿易の広がりと存続期間に関しては疑問がある。
 記録によると、南イラクで灌漑工事に従事させられて、9世紀に反乱を始めたのは、ザンジュと呼ばれた黒人奴隷であったのは間違いない。
 彼らがザンジュと呼ばれた東アフリカ海岸沿いから来たのは本当らしいが、より広い地域からの人たちが、有力なグループとして加わっていた可能性はある。
 確かなのは少なくとも9世紀にまで遡って,東アフリカからの相当の奴隷貿易があり、中世の書物にザンジュに関して多くの言及がありザンジュ地域での奴隷貿易が、ひよっとしてそのような数ではないかも知れないが、継続していたことを示している。

 歴史家で考古学者であるヘルバス・マスーは、12世紀からの期間を議論して、イスラム教徒がインド洋を支配していた時、東アフリカ沿岸地域の町々は東方に2種類の特異な輸出品を供給していた。
「アフリカ象牙は中国での需要が高く、インドでは重宝された。その一方、イスラム教のインド、メソポタミア(イラク)では飽くことを知らない奴隷の需要があった。」 
 歴史家ネビル・チティックは、9世紀までに東アフリカからの奴隷貿易の存在を認めるが、現在のソマリア海岸から北方に輸送されたことはほとんどないと断言している。
「アフリカの角が奴隷の主な源であったと思われる。人間を輸送するのはかなり費用がかかるし、病気による損失もある、よってアフリカの角からの短い旅は有利であった。」
 二人の歴史家とも正しいと言うのはありえない、そして、ザンジュの奴隷たちは陸上をアフリカの角まで運ばれ、そこから船で送り出された。

 とにかく、数世紀に亘りアフリカの東海岸からイスラム社会の色々な場所への黒人奴隷の流出があったのは間違いない、そしてそれが紅海での貿易にくらべると大きくないとしても、サハラ砂漠を超える陸上の交易だけ取ってみても、その数は非常に多い。

※ザンジュは、かってアラビア人地理学者によって東アフリカ沿岸の特定の場所、またはその住人である「ザンジュ」と呼ばれたバンツゥー語話者の両方を指すために用いられた呼び名である。海岸は、「ザンジバル」という地名の語源である。
※注:ウィキペディアより。
※"Islam’s Balck Slaves" by Ronald Segal 'Author of The Black Diaspora' より抄訳。

   

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